だれかとごはんをたべることは、だれかとじんせいをつくること。



もぐもぐ考える
もぐもぐと咀嚼する :: 2014/11/21(Fri)




「ひとは観念をたべる?」





食べる、舐める、飲む、息をする」


話す、笑う、泣く、唸る、歌う、そして愛玩する。

つまり、

食事、語らい、感情の表出、歌唱、そして性の交わり。
どれ一つを欠いても、人生が成り立たないくらいに生きるうえで大事なことを引き受けている。

だから幸福はここに集中する。」

不幸も、だから、ここに集中する。」


(鷲田清一)


























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「おいしい?」


たべものを介してひとに想いをはせること

コミュニケーションのチューナーとして間に介在するものがたべることであるとすれば、

1人称と2人称のあいだに在る3人称

たべものが持つ 色かたち、温度、質感、におい、味、




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たべるってのは、あんまりにダイレクトだ。

身体にも精神にも、直通で取り込まれる。

それを物質的に考えたなら、この社会の中じゃあ、なんにも口にできなくなる。

「農薬だ、添加物だ、放射能だ、体質に適さない食物だ」

したらば、今どうやって生きている?



ひとは観念をたべる。



「あなたとたべるごはん」をたべる。

「あのひとがつくってくれたお弁当」をたべる。


だから2人称が不在でたべることはさみしい。

2人称という概念がなければ3人称という概念も存在しない。







「風をたべ」 「朝の日光をのむ」 ことができるのは

2人称に自然があって

3人称/仲介者として在る、風とか光とかそういう気としてのたべものを「たべる」。


どこからか聴こえてきた音みたいに

2人称がどこにいるかが分からないとしても

それを物語という観念/イメージとして「たべる」ことができる。



それはコミュニケーションのチューニングであって


自分とそれのあいだにある仲介者の質感や輪郭を感じとることで

たべものを創ること になる。



イメージは口から入って、腸にたまる。

「脳は腸にある」。



たべることは創ること と、ふっと思ったのは何故だろうって考えていました。
走り書き


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採ったゆず、だいこんと一緒に漬けました。
もう風邪ひかんよう。

冬がきますえ。

(こわれたカメラ直したいなあと思った)

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